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ALBUM

浅丘ルリ子さんに関する資料室です。
ラジオドラマ「悦ちゃん」の絵物語。
ラジオドラマ「悦ちゃん」の絵物語。

獅子文六原作の新聞小説「悦ちゃん」(昭和11年7月〜12月報知新聞連載)
のラジオ放送版「悦ちゃん」(1955年・昭和30年)の主演を浅丘ルリ子さんが声で演じたもの。
その放送を絵物語に構成した「少女クラブ」11月号の付録。

日活映画「禁じられた唇」1958年(昭和33年1月3日公開)
日活映画「禁じられた唇」1958年(昭和33年1月3日公開)

製作: 高木雅行
原作: 沢野久雄(主婦と生活連載) 
脚本: 新藤廉人
監督: 堀池  清
撮影: 高村倉太郎 美術: 松山  崇
録音: 神谷正和   照明: 大西美津男
編集: 近藤光雄   音楽: 木下忠司
助監督: 白鳥信之 製作主任: 亀井欽一
 
文子   野添ひとみ
戸美葉 浅丘ルリ子
五郎   津川雅彦
 
 
 
製作意図・・・京の祇園に生れ、祇園に育つ妹と、
そこを逃れて大学にゆく姉とが、一大学生をめぐっ
て繰り展げる恋物語を、きびしい現在の社会と祇
園を背景に描きたい。(台本より)

台本より(戸美葉=浅丘ルリ子)
台本より(戸美葉=浅丘ルリ子)

日活映画「絶唱」1958年(昭和33年)10月15日公開
日活映画「絶唱」1958年(昭和33年)10月15日公開

小林旭さんと共演した「絶唱」の台本
原作:大江健二 脚本: 八住利雄 監督: 滝沢英輔
 
大地主の息子・順吉(小林旭)と山番の娘(浅丘ルリ子)の愛。 

「絶唱」台本より
「絶唱」台本より

若い傾斜(昭和34年日活映画作品)
若い傾斜(昭和34年日活映画作品)

1959年6月30日封切り。
同時上映「非情な銃弾」
原作: 船山 馨
脚本: 小川 英 池田一朗
監督: 西河克己
撮影; 伊佐山三郎
 
川地民夫 浅丘ルリ子
清水まゆみ 赤木圭一郎
 
「日本映画戦後黄金時代・日活の監督」より
<西河克己監督>
若者の心情をスクリーンに定着する青春映画の作り手として、この人の右に出る監督は何人もいないだろう。
アクション専科の日活の中で貴重な存在だ。
松竹で渋谷実、中村登に師事、27年にデビュー。29年に日活に移る。
 
浅丘ルリ子さんは、弁護士・緒方の娘で主役の川瀬(川地民夫)を積極的に追いかけるような活発な役でなかなか良い。赤木圭一郎が川瀬の友人として重要な役で出ているのも見所。
 

「若い傾斜」シナリオより
「若い傾斜」シナリオより

浅丘ルリ子・悲しみよさようなら
浅丘ルリ子・悲しみよさようなら

「ルリチャンおめでとう!! 石原ユウジロウ」
この2月1日から撮り始めた映画「何か面白いことないか」に出て2日目、もうロケも始まって、調布の飛行場での徹夜中、夜空は満天の星、
足を動かすとザクッザクッと霜の音がする。指一本動かしても激しい寒気が襲ってくるそんな時、今度朝日ソノラマからルリちゃんの歌が
出ると聞いて、本当にビックリしちゃったんだ。
実際、ルリちゃんの歌が、映画以外ではこれまで、歌われたことがないなんて信じられなかったよ。
それで、スタッフが傍に置いてくれたガソリン鑵の炭火に手をかざしながら、何となく今までのルリちゃんの仕事を憶い出して見た訳。
僕が始めて、ルリちゃんと共演したのは、確か井上梅次監督のミュージカル「踊る太陽」だったね。フランキー・堺さん、ペギー・葉山さん、
芦川いづみさん、高英男さん、轟夕起子さんそれに今度嵯峨三智子さんと婚約なさった旧友の岡田真澄くんなんかで毎日歌って踊って
すごく楽しかったね。あの時デュエットで歌った主題歌まだ覚えてるよ。撮影の合間にセットの隅でピアノ弾いたり歌ったりしてね楽しかったな。
あの頃から、ルリちゃんの歌、巧かったね。僕みたいな音痴と違って、ルリちゃんの声は音程はしっかりしているし、何より声自体が澄んで
綺麗なんだから。僕はいろんな歌が好きだけど、ルリちゃんの声は、きっとしっかりした女らしい優しい歌に向くと思うんだ。
滝沢英輔監督で撮ったルリちゃんの『絶唱』 映画も素晴らしかったけれど、ルリちゃんの歌った『木挽歌』 あれは映画の主題にぴったり合って
凄く良かったね。僕の好きな歌の一つだな。だから今度の四つの歌の中に、『木挽歌』を是非入れて欲しかったのだけど、何かの事情で
駄目になったって?とても残念だな。でも何はともあれ、ルリちゃんの歌をとても楽しみにしてるんだ。僕にも一枚プレゼントしてくれるね。
ルリちゃんと僕の共演は、去年だけでも『憎いあンちくしょう』『若い人』『花と竜』といった具合で、沢山あるのに、一緒に画面で歌ったのは、
一番最初の『踊る太陽』だけだなんて、考えて見ると不思議だね。
画面の外で、歌ったことは何度もあるのに。ホラ、去年の夏、『憎いあンちくしょう』で、東京から熊本まで、僕はジープ、君はM・Gで、遥々、
長いロケーションをした時、明石のフェリー・ボートの乗り場で、君に”赤いハンカチ”って言う歌教えてあげた時の事覚えているかい。
君と僕がロケ現場にスタッフより先に着いちゃってサン橋の所で待っていた時のことさ。
朝靄の瀬戸の海を眺めながら、ちょっとロマンチックだったね。ルリちゃんが、余りに歌を覚えるのが早いんで驚いたな。
でもこれからは僕が教えてあげるだけぢゃ駄目だよ。
ルリちゃんも教えてくれなきゃいけないよ。
ただし、僕はルリちゃん程早く覚えられるかどうか自信はないけどね。
ねえ、ルリちゃん、近いうち、共演する時、チャンスがあったら、今度はチャンとしたデュエットで歌っちゃおうよ。コレダって言うような
良い歌を見つけて必ずやろうよ。
ルリちゃんのデビュー盤にお祝いいう積もりだったのに、いつのまにか仕事の話になっちゃったから、もうこの辺で止めることにするよ。
演技的にもどんどん伸び続けるルリちゃん。今年もきっと活躍してくれるものと期待してますよ。僕も負けずに頑張ります、
なんて言うと小学生の綴り方みたいだけど、ほんとうにそう思ってるんだ。
  ルリちゃん、デビュー盤おめでとう!!
 
 

浅丘ルリ子・悲しみよさようなら(朝日ソノラマより)
浅丘ルリ子・悲しみよさようなら(朝日ソノラマより)

<浅丘ルリ子という女優>(朝日ソノラマ編集部)
浅丘ルリ子という呼吸(いき)の長い強靭な女優は、いまの日本映画ではちょっと珍しい存在ではあるまいか。
一見弱々しい身体のなかにちらりと見せるシンの強さ。神経質のようでいて、ときおり人をはっとさせるほどの逞しさ。 
彼女のなかには、こういった、強く逞しいものが、大地に横たわる鉱脈のように秘められている。
なるほど女優としての生命が長く、また人気の上でも浅丘ルリ子をしのぐ女優はまだまだ他に数えることもできるであろう。
しかし女優としての未開拓の土壌を内に秘めているという点で、彼女は確かにユニークな女優である。
人はよく彼女を評して「いつ観ても初々しい」という。スクリーンに表現される浅丘の女は、確かに新鮮であり、可憐である。
”清純スター”という彼女に冠せられた言葉は彼女のこういった一面を掴んだものであるが、それが彼女の全てではないはずだ。
浅丘ルリ子は変わりつつある。むしろ従来の”清純スター”という看板に、ある色彩を彼女自らの筆で彩ろうとしている。
浅丘ルリ子の本名は浅井信子、新京(満州)で生まれた。そしてすぐにバンコックへ。そこで4歳まですごしたが、
彼女の中にひそむ、どこか異国的なムードは、こうした生活の環境の影響も受けているに違いない。
「私は夏が一番好き。あのきらきらした樹木や水の色を見ると急に元気が出てくるの」彼女のこんな言葉の中に、
いかにも浅丘ルリ子という女優の内面がうかがわれるのである。 
昭和29年の冬彼女が小学校6年の冬、日活が北条誠の連載小説「緑はるかに」の映画化を決定したとき、主役の薄倖の少女役
に応募、水の江プロデューサーに認められて日活に入社することになった。
幸せを求めてさすらう少女と緑の小筺の運命を描いた作品で有ったが、浅丘の女優としてのこうした出発はなにか暗示的な
ものを含んでいる。
浅丘ルリ子という芸名は、井上梅次監督から主役の少女のルリ子の名にちなんでつけられたものであり、またこの作品は、
日活初めてのカラー作品で有った。
この作品は、好評を持って迎えられたが、ことに、不幸な少女を演じた浅丘の可憐な詩情は、無名の新人の彼女に一躍華やかな脚光を浴びせることになったのだ。
その後彼女は日活の貴重なスターとして、ほとんど毎月二本の割合で出演、清潔で可憐な雰囲気をスクリーンに醸し出し、33年にはプロデューサー新人賞を獲得した。
浅丘ルリ子の名を決定的なものとしたのは33年秋の芸術祭参加作品「絶唱」であった。
小林旭とコンビを組んで演じた素朴な山村の乙女の悲恋は、いつまでも浅丘ルリ子と言えば「絶唱」を想い起こさせるほど深い印象を与えたのだった。
これが機縁となって、彼女は小林旭とのコンビが続く。いわゆる渡り鳥シリーズ。流れ者シリーズがそれであるが、アキラ・ルリ子コンビは、日活のドル箱的存在になった。
一方彼女は、文芸もの、社会ものといわれる作品にも主演、「雑草のような命」「処刑前夜」「どじょっこの歌」の中で見せた女の微妙な心理は、彼女の奥行きの深い演技力を示すものであったが、彼女の演じてきた女の中に通っているシンとなるべきものは、どこまでも、ときには彼女に弱々しい印象を与えるほどの清潔さであった。
これが、がらりと変わって、それまでの彼女に見られなかったものを打ち出したのが、昨年の「憎いあンちくしょう」である。
世間ではこれを浅丘の演技開眼と言ったが、彼女にいわせれば「女の本能を何の気取りもなく、正直に演じただけ」ということになろうか。
しかし清純スターとして眺められてきた浅丘にとって「憎いあンちくしょう」で見せた文字通り身体を張った演技には、相当の勇気が必要だったにちがいない。「お人形のような女ではなく、人間として傷つき、汚れに染まった女をやってみたい」と、彼女は今撮影中の「何か面白いことないか」でもあくまでも前向の姿勢だ。
彼女は、今歌にも意欲を燃やしている。作曲家牧野昭一氏に指導を仰ぎ、このほど朝日ソノラマに「悲しみよさようなら」「新さのさ」「稗搗節」「島原地方の子守唄」など4曲を吹き込んだ。
 
 
 
 
 

希望座談会「三人よれば」石原裕次郎・浅丘ルリ子・高橋英樹(テイチク・フォノ・グラフより)
希望座談会「三人よれば」石原裕次郎・浅丘ルリ子・高橋英樹(テイチク・フォノ・グラフより)

ある晴れた土曜日に撮影所の休息室で、裕ちゃんと高橋英樹君がバッタリ顔をあわしました。
あまりは話をする機会がなかった二人は、これはチャンスだとばかりに通りかかった浅丘ルリ子さんを呼んで、日頃から想っていることを話し合いました。
 
<裕ちゃんと共演したい>
裕次郎 「僕の一番言いたいことは・・・」
浅丘   「私の悪口でしょう?」
裕次郎 「それもあるが(笑)、英樹と共演したことがないのは残念だ、ってことサ」
高橋   「ホントですね。日活のニューフェース試験を受けたとき、一番思ったのは裕ちゃんやジョーさん(宍戸錠さん)と共演
      できるかなァ、ってこと。ジョーさんの方は、ようやく実現したんですがね」
浅丘   「人生劇場ね」
高橋   「ええ。しかも吉良常と瓢吉っていえば最高の組み合わせでしょう?ゴキゲンでした」
裕次郎 「ジョーさんやエイメイさん(二谷英明さん)は相手を立てるのが上手いからなァ」
浅丘   「それで、自分もちゃんとイバッてる(笑)」
高橋   「ルリちゃんにも<どじょっこの歌>で指導されて(爆笑)」
浅丘   「いやだァ、(笑)皮肉ね。」
高橋   「ホントですよ。まだ右も左もわからないころで。今だってわかっちゃいないけど(笑)」
 
<マコに指導された僕>
裕次郎 「ま、実際、最初にどんな人と組むかでずいぶん違うねえ。僕なんかアキオ(長門裕之さん)といっしょだったから
      (註・太陽の季節)、良かったね。アイツのやるのを見てて、ああいうふうに楽にやればいいんだな。と思った。
高橋   「裕ちゃんに、そんな計算があったのかなァ。(笑) いえ、悪いイミじゃなくて。」
裕次郎 「そりゃ少しはかんがえたサ。勝手なことしてやれと思ってたら、それじゃカメラからズレちゃうぜって監督に言われ
      て、笑」
浅丘   「そのあとでマコちゃん(北原三枝さん)と共演したから、これでOKねもう」
裕次郎 「あ、先に言いやがった(笑)狂った果実のときは、たしかにマコがリードしてくれた。のろけじゃないぜ、別に」
浅丘   「私もその点、裕ちゃんにはずいぶん助けられたわ」
裕次郎 「ご冗談でしょう、先輩。(笑)」
浅丘   「いじわるねえ。本当です。ほんとうよ」
裕次郎 「わかった、わかった」
 
<三人で何か映画を>
浅丘   「私、演技を何か構えて考えすぎてるんです。裕ちゃんの演技を見てると、違うのね、どこか。ああ、この自然さを掴み
      たいなあ、って思って…」
高橋   「ウーン。そいつあァよく判るなあ。僕も、どうもキバッちゃうんです」
裕次郎 「役柄のせいもあるだろう?」
高橋   「ええ。でも、どうしてもイカん。だから裕ちゃんとやってみたい」
浅丘   「この3人で出られること、なんかあるかしら?さわがしいでしょうけど」
高橋   「ゼヒ実現したいなあ」
裕次郎 「ま、考えときましょう」
高橋   「お願いします。社長。(笑)どんな三ン下役でも結構ですから…(笑)」
裕次郎 「ルリちゃんは、その奥さん?(笑)」
浅丘   「だったら、うんとイバるのがいいなあ。夫婦喧嘩で勝っちゃうの(爆笑)
 

渡り鳥シリーズ
渡り鳥シリーズ

「南国土佐を後にして」(1959年)
「ギターを持った渡り鳥」(1959年)
「口笛が流れる港町」(1960年)
「渡り鳥いつまた帰る」(1960年)
「赤い夕陽の渡り鳥」(1960年)
「大草原の渡り鳥」(1960年)
「波涛を越える渡り鳥」(1961年)
「大海原を行く渡り鳥」(1961年)
「渡り鳥北へ帰る」(1962年)
「渡り鳥故郷へ帰る」(1962年)
 
 
 

愛の化石
愛の化石

1969年(昭和44年)はアポロ11号が人類初の友人月面着陸した年。
音楽では「ブルーライト・ヨコハマ」「黒ネコのタンゴ」「恋の季節」「夜明けのスキャット」「長崎は今日も雨だった」等がヒット。
洋画では「明日に向かって撃て」「イージーライダー」邦画では「男はつらいよ」シリーズが始まっている。
元々歌手志望だった浅丘ルリ子さんの「愛の化石」もヒットし当時よく聴いた。1970年に日活で映画化もされている。

「男はつらいよ」シリーズ
「男はつらいよ」シリーズ

「男はつらいよ 寅次郎忘れな草」(1973年)
1955年「緑はるかに」から1964年の10年間は約100本の映画に出演。
1965年「意気に感ず」から1974年の10年間は約42本の映画出演で
‘73年「戦争と人間 第三部完結篇」日活映画で完結している。
この日活映画の一つ前に公開され(ほぼ同時期)たのが「寅次郎忘れな草」
1965年の「水で書かれた物語」からは他社出演も多くなった10年間だが
20年間の日活映画出演に別れを告げ松竹の「寅さんシリーズ」へとバトンタッチされた記念すべき作品。
日活映画のヒーローは汽車に乗って町にやって来るパターンがあるが、この映画のリリーの初登場シーンは
夜汽車に乗って日活映画の旅を終えたリリーが寅さんと出逢う序章のようでも有る。
網走駅近くの橋で初めて寅さんに声をかけ波止場で話す寅さんとの場面は秀逸。
ステージの時間が迫り慌てて行こうとするリリーが振り返って「兄さん。兄さん何て名前?」
台場から降りて少し照れたようにリリーのほうに頭を上げて「え?俺か・・俺は葛飾柴又の車寅次郎と言うんだよ」
この瞬間。この演技の間が最高の寅さんを引き出している。いろんな旅をする中で新しい世界に最高の出逢いをした瞬間でもある気がする。
 
「男はつらいよ 寅次郎相合い傘」(1975年)
1975年は外国映画の配給収入が邦画を初めて上回った年となり、「タワーリング・イン・フェルノ」「大地震」「エマニュエル夫人」
等が大ヒットした。
1975年は「想い出のかたすみに」(松竹)に出演後、ふたたび寅さん映画「寅次郎相合い傘」にリリーとして帰ってくる。
ラスト、アパートが見つかったと言う事でリリーが荷造りするシーンで妹のさくらは冗談よと言いながら「お兄ちゃんの奥さんになってくれたらどんなに素敵だろうなあ」と問いかける。
リリーは思いつめた表情で「いいわよ」「私みたいな女でよかったら」と応えて家族を驚かせる。
そこへ帰って来た寅さんとのやりとりが日本映画でも屈指の名場面となる。
「お前本当に、じょ・・冗談なんだろう・・え?」
と問い詰める寅さんに反応するリリーの表情の変化は浅丘ルリ子さんの真骨頂。
見事この年のキネ旬主演女優賞に輝いている。
「思いもかけない知らせで驚きました。でも、たくさんの映画ファンを娯しませている作品を通しての受賞ということで嬉しさも格別です、本当にありがとう」とキネ旬にコメントが載っている。
 
「男はつらいよ・寅次郎ハイビスカスの花」(1980年)
洋画では「スターウォーズ帝国の逆襲」「地獄の黙示録」等が大ヒット。邦画では「影武者」「復活の日」等がヒットしている。
沖縄を舞台に物語が展開する「寅次郎ハイビスカスの花」でリリーが帰って来た。と言うか沖縄の病院に入院しているリリーの所へ寅さんが駆けつけるのである。苦手な飛行機に乗ってフラフラで着いた沖縄の病院に駆けつけご対面のシーンは何度見ても眼が潤む。
一度柴又で別れたリリーと寅さんは旅先のバス停で偶然再会し同じバスに乗って巡業の旅に出る。もっとも後味の良いさわやかなラストになっている。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「男はつらいよ・寅次郎 紅の花」(1995年)

舞台
舞台

1979年は「ノートルダム・ド・パリ」(蜷川幸雄演出)で初舞台。
しばらく間が有り1984年にふたたび蜷川幸雄演出で「にごり江」を演じている。
1984年キネマ旬報にこの時の心境を語ったインタビューが載っている。
 
ーーー浅丘さんに舞台の話から伺うというのは、映画スター浅丘ルリ子のファンとしてはちょっと残念なんですけど(笑)初舞台の「ノートルダム・ド・パリ」以来というと、5年ぶりですか。
「そうですね。その間4回ぐらい、舞台のお話が有ったんですけど・・。やっぱり舞台は不馴れですから、ただただ怖いというだけの理由だけでお受けできなくて」
ーーー映画とは違います?
「違いますねえ。お客様を眼の前にしてやるというのは、大変で。初舞台の時も、もうやりたくないって(笑)」
ーーー蜷川さんの演出が厳しいとか。
「いえいえ、そういうのは全然ないんです。ひたすら恐怖心だけ(笑)今頃こんなこと言って恥ずかしいんですけど、舞台で科白が出なくなったらどうしようとか、もう初歩的なこと(笑)何度もこわい夢を見るんです。
例えばね、もう舞台が始まってるのに、私だけ何故か遅刻してしまうの。出番だというのに、メイキャップも衣装もつけてないし、科白も何もわからず、ただウロウロしてるような夢。そんな夢のあとの疲れさ加減はひどいもので、しょっ中そんなことがあります。そういう怖さって、女優をやってる限りずっとつきまとうような気がしますけどね、舞台のときだけじゃないですから」
ーーーアガリ性?
「全くそうなの。(科白を)何十回繰り返して完全に覚えてても、スコーンと忘れちゃう時があるんですね。アガっちゃって、集中心がないのかしら」
ーーー初日は大変(笑)
「足を一歩出すのが大変。[ノートルダム・ド・パリ]の時は客席から踊りながら出て行くんだけど、足が動かないの(笑)」
ーーー今回よく思い切って。
「やっぱりね、いつも自分をラクなところばかり置くのもよくないでしょ。そろそろ、イヤーな緊張感を味わってみようかなと(笑)」
 
一部抜粋させていただきました。
完璧に科白を覚えて稽古に望むと言う浅丘ルリ子さん。1998年2度目の「にごり江」では菊田一夫演劇賞を受賞している。
 
 
 
 
 

ふぁんサイト立ち上げの想い出
ふぁんサイト立ち上げの想い出

兄が持っていたフォノグラフを借りてきた。
昭和39年5月購入となっているので、私が10歳の頃だ。 (てことは兄は16歳だなあ) 赤木圭一郎、石原裕次郎ふぁんの兄はレコードや写真集をいっぱい買っていたので、その影響で自然に写真や映画紹介は日活作品に目が行った。
小学校の頃から自然に浅丘ルリ子さんが身近に存在していた感が有る。パソコン購入して日活の関連サイトへお邪魔するようになってから浅丘ルリ子さんのファンサイトが存在しないことが話題になる事が多くなり「そういえば無いなあ」とビックリした。自分の趣味サイト「縁多亭」の中でも話題になる事があり、こうなれば自分でやってみようと思い立った。普通はその俳優さんに精通してるふぁんの方が運営するのだが、ほとんど昔から知ってるだけ感覚で始めたのだ。一回目の立ち上げは数ヶ月でパソコンの故障により遭えなく断念。掲示板だけは何とか残した。半年後パソコンをやっと購入。どこの馬の骨だか分からないのが勝手にサイトを運営するのは申し訳がないので、浅丘ルリ子さんの所属事務所「カラント」にFAXでサイト立ち上げの連絡を恐る恐る(笑)入れた。
リンクの許可とかを他の有名サイトにお願いしても、何の返事も貰えないのが常なので、返事は無いものと思っていた。
すぐにだったか、数日後だったか忘れたが、ある日FAXに返事が来ていた。スタッフの方から「楽しみにしています」というような返事だったと思う。
感激した。
その時のお約束が写真を使用しないことですので浅丘ルリ子さんの写真は掲載しないように守って行きたいと思います。

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Last updated: 2008/1/26